昭和46年12月27日 朝の御理解

御理解第47節  祈れくすれにすれば、おかげも早いが、くすれ祈れにするから、おかげにならん


 例えば病気にいたしましても、病気をすればすぐやはり薬と、これは例えば、信心が薄いとき、信心が無いときには、誰でもそうですね。
どうかあればすぐ薬と、これはもう、すぐ心が動きます。
段々信心を頂いて参りますと、例えば、どうかありましても薬ということは、もう頭にこないようになりますね。
 これはもう段々そうなります。ね、薬というのはかえって、薬毒というて、薬の毒、というものが、それはなるほど、其の場を沈めたり、其の場を治すと言ったようなことは、できるかもしれませんけれども、まあ、薬の使うことが良い、悪いはべつとしましてですね、とにかくどうかあるからというて、すぐ薬が頭にピンと来ると、言ったようなことでは大体、金光様の御信心をいただいておるほんとの値打ちはないですよね。
 そりゃなるほど、それからというて、さあ、御神酒さんだ、さあ、御神米だと申しますね。私共も子供の時から、それで育てられてきておりますから、頭が痛かっても、腹が痛かっても、すぐ、御神米であり、御神酒さんで、またそれでおかげを受けてきた。
ですからまあ、その薬毒こそないけれども、やはりさあ、すぐ御神米だ、御神酒さんだというのは、まあ、くすれ、祈れ、くすれではなくって、言うなら、くすれ、祈れか、大体あんまり変わらんですね。
 ね、頭が痛い、御神米もう御神米がノーシンのごとある。ね、胃が悪い、さあ御神酒さん、もう御神酒さんが胃の薬のようである。
 と同じですから、あんまり五十歩百歩です。正しその薬毒はありません。ね。
 薬の毒と言うものはありません。だから私は、この祈れくすれというのは、もう根本的に、なところで、そういう意味じゃないと思うです。
 ね、もちろん、また、どうかあるときに、お取次ぎを頂いて、頭が痛うございます、腹が痛うございますと、お願いをして、そして、まあ、薬を頂くとか、まぁ、薬でも何でも、ご神前にお供えをさせて頂いて、どうぞこのお薬をあなたのお恵みのものとして頂きますと、まぁ、念が入っておるようであるけれども、まあ、それもあんまり、変わらん五十歩百歩です。
 くすれ祈れにするから、おかげにならん、と仰る。ただ、そういう、只今私が申してまいりましたような、例えば程度のとこでは実はおかげにはならん、ということ。
 どうかあるときに、神様にお願いをして、薬を飲む、どうかあるときの御神酒さんを頂いたり、御神米をいただいたりして、おかげを頂く。
 そういうことでは本当のおかげにはならん。いかにも、そこには、お薬をお供えしてから、頂いた。
取次ぎ頂いて、お願いをして、医者にかかったと、いうのはです、ね、言うならば、お供えもせず、薬を頂いたり、または、お願いもせんなり、医者にかかったり、医者がちっとばっかり、首ひねられたから、心配になるから、神様にまたお願いに来るといったようなものがあります。ですから、まあ、そうところの程度のとこをここでは、仰っておられることもその中にありましょうけれども、今日、私が皆さんに、聞いて頂きたいのはね、どうか、それとはもっと違う、もっというなら深いもの、ね、いうならばです、医者にもかからんで済む、薬ものまんで済む、あただに御神米の、御神酒さんの、と言わんで済む、そういう信心になる時に、おかげになるのです。
だから、その程度の時にはおかげにならん、とここに断言しておられます。まぁ、それに近いですね。
 どうでしょうか皆さん。私が言おうとする意味が分かりますでしょうか。
金光様の信心をさせて頂いておって、どうかあるときには、まず、お願いをして、お薬を飲む、ね、そこは、そこまでにいくだけでも、やっぱり、相当年限がかかりましょう。
色々分からなければ、ほんとに御神水の有難いこと、御神酒さんの有難いこと、御神米のいうなら、功徳というようなものを体験させてもらう、それは確かにそうなんですよ。
なら、私共が、なら、御神米も頂かんか、御神酒さんも頂かんかちゅうと、私共は毎日御神酒さんいただいておる。
 ね、金光様は、御晩年のこの、ある正月のご参拝の時に、お取次ぎを願わせて頂いたら、フッとこう頭を上げさせていただいたら、金光様の・・?から、・・?にかけて、御神紙をこう張っておられました。白く、ばんそうこを張ったようにあった。
 毎日、ずーっと御神米を、こうやってここで、あの、ご洗浄なさる。ここがあかぎれが切れるそうですね、私は金光様の手に、あかぎれが・・?そこに御神紙を、こう、頂いておられるわけなんですね。
ですから、ね、ここで頭が痛いの、腹が痛いのと、お届けすると必ず御神米が下がりますね。
 その御神米によって、まぁ、おかげを頂くということ、ね、それよりもっと、このご理解の奥にあるものというかね、このご理解の底にあるもの、それはやはり、祈れ、くすれということがです、どういうことかと。
 私は今朝、ご神前で、「泣く」という字を頂いた。さんずい辺に立つ、ね、私はこれは、さんずいは、お恵み、とこう頂きます。ね、ですから、お恵みに立って泣く、といただいた。
 ね、お恵みに立って泣く、ということ。ね、いわば、おかげに立ち上がるということ。しかも、感動一杯いわゆる、有難涙を、が出るほどに、ということだと、いただいた。
 私はね、これがギリギリの私の信心なんですけれども、そのおかげに感泣するほどしの信心、あれもおかげである、これもおかげであると、おかげを思えば思うほど、ね、それこそ泣くまいと思うてもありがた涙が、こぼれるという、ほどしの信心。
 ね、私ほんとに、信心生活は神恩報謝の生活とこう言われるがですね、簡単に神恩報謝の生活と申しますけれども、私は、そういうことだと思うですね。神恩の感泣する、ね、その感動が、やむにやまれん働きになって現れてくる。
教会参拝も、教会御用も、家庭での生活、家庭での家業の行の上にも、ね、その感動がでです、ジッとしておられないという、ところから、いわゆる立ち上がっての御用になり、生活になる。そういう生活を、神恩報謝の生活だと思う。
 ただ、神恩報謝と、神様のお恵みをおかげと思うております、というのであって、おかげを思うておるその思いが、一つの衝動ともなってくる、感動になってくる、それが家業の行になり、ね、教会参拝しなければおれんのであり、ね、参拝いしたでではない、それこそ御用の一つもさせてもらわなければおられんのであるという所まで、高められてくるときです、くすれ祈れにするからおかげにならんと、おかげにならんという、ね、やはり自分の難儀なとき、苦しい時だけ、祈ると、そういう時にだけ、お参りをすると、なるほどその苦しいことから逃れるだけのおかげは受けてもです、それでは、神様が下さろうとする、本当のおかげにはならんのです。
 ね、一つの願い事というのがあって、その願い事のために、一生懸命お参りをする、なるほどその願い事は成就いたしましょう。ね、またそういう願いの、お参りのうちにです、まぁ、様々な、信心を分からせていただくということも言えます。
 ね、過程ですから、けれども段々、信心の・・?が、分からせて頂いたら、あれおかげ、これもおかげと分かることでありますから、そのおかげに感動する所まで、今日こうやっていただいておるおかげが、ね、思えば思うほど、ありがた涙が流れるほどしの所まで、有難いと感じさて頂けるほどしのもの、ね、それが、日々の家業の行になり、日々の参拝になり、御用になり、というところを目指さなければいけないということです。
 ね、これならば、いわば、おかげにならん、と仰る反対の、おかげになると、今度は反対にもう、断言できるでしょう。ね。
 くすれ、祈れ、例えば薬を飲まねばならないようなことが、これは、体だけのことじゃないですよ。薬を飲まなければならないようなことがある、お参りしておすがりして、お願いしてばならんようなことがある。
 だからお参りをするというのは、くすれ、祈れと、あんまり変わらんとです。
あれば頼まんならん、こればお願いせんならんから、お参りをするという、ね、あれもお礼を申し上げなければならない、これも、お礼を申し上げねばならないから、参拝をするというのが、これが私は、祈れ、くすれ、ということになる。
ね、そういう祈れということは、そういう信心になることによってです、くすれ、というのは、まあ、願わんでも頼まんでも、おかげが受けられるという、ことになってくる、ということです。
 ね、願っておかげになるということは、範囲が、狭い。願わずに頂くおかげというのは、どこまで、底があるやら、広さがあるやら分からんほどしのおかげなんです。
 そういうおかげが受けられると、またそういうおかげが受けられる、と、ここではおかげが、おかげにならんと断言しておられるのは、そういうおかげにならん、頼むことだけは、おかげになっても、ね、他のおかげになっていかない。
 どうでも私共の信心がです、ね、いわゆる、お恵みに 立ちあがらせていただける信心。お恵みをお恵みと感じさせて頂く、感得させて頂く信心。
 ね、信心が分かってくるということは、そういうように段々、いわゆる、お恵みをお恵み、おかげをおかげと分かって、ただ自分がちょっと、腹が痛いとか、頭が痛いとかいうことだけが、に、信心を、いわゆる、神様を行使するというか、ね、自分の苦しい時だけ、お参りをするというのはそういうことになるのじゃないでしょうか。
 ね、それは、そこから、信心が、また育っていかなければらないけれど、それで終始してはならんのです。信心が、そこから、ほんとの、おかげをおかげと感泣するということ。
 ね、その感泣するほどしの、感動がです、お参りになり、御用になり、家業の行になってくるようなおかげを頂かなければならん。
 そこで、も少しそれを、具体的に深く言うとです、あれもおかげ、これもおかげと分かるからです、たとえてそれがならば、痛いことの場合であってもです、痒いことの場合であってもです、ね、神様が、いわゆる、このようにして、私の信心を育ててくださる、このようにして修行させて下さるという、頂き方で、いわゆる、ここで言う、御事柄として、の受け方です。
 ね、もうそこにはね、そこには、いうなら、なんですかね、ただ、今日、私が頂きます、お恵みに立ち上がって、ね、神様に、いよいよ、そのお恵みによって、立ち上がる。
ね、お恵みをお恵みと、感受させて頂いて、その感動が、次の信心に飛躍をする、立ち上がる、しかも、もうそれこそ、泣く泣くいうなら、感泣しながら、それに取り組ませて頂いておると、そういう祈りにならせて頂く、祈れ、くすれにするということ。
 ね、ここんところの祈れ、くすれは、そういう祈りになるとき、そういう信心になる時に、くすれというのは、ね、いわゆる目に見えない範囲の広い、おかげの世界というのが、いわゆるそういう、おかげになると、断言でけてくる。断言される。
くすれ祈れにすれば、するから、おかげにならんと仰る。こう言うところを、もう一つよく分からんならんことはね、もう、また始めに戻りますとですよ、ね、神様にお願いせんなり、お薬を頂いた、神様のお願いせんなり、医者にかかった。ね、それでもやはり、ならおかげを受けておるという事実があるじゃないですか。
ね、良くなったり、治ったり、してましょう。そして信心のない者は、もうそればっかりなんです。信心があっておってもそうです。お願いもせん癖に、お取次ぎも頂かんけれど、やっぱり、胃が悪かった時胃酸を飲んどりゃ、ようなったと、だからおかげにならんとこう断言しておられることが、嘘になる。ですから教祖様が嘘を仰るはずはないから、おがげにならんというのはっです、神様が本当に下さろうとしておるおかげの世界に、そういう信心が入って行けんということだ。
 今日私ここんところをね、そのだから、これとは反対に、おかげになるということ、こういう生き方で行けば、おかげになると、こう反対に断言できるような、おかげのことを言ってるわけです。
 ね、それは、私どもがおかげをおかげと分からせてもろうて、そのおかげに感動して、そのおかげに感泣しながら、神様に向うていくという生き方になれば、おかげになるというのは、もう限りのないおかげなんです。
 もうそれでそれを一番分かりやすく、言うならですよ、なら、私の修行中です、ね、もうほんとに、立ちも這いも出来んほどしに、難儀を感じとった時代があったけれどもです、ね、神様がね、神様なればこそ、親神様なればこそ、このようにして私を鍛えてくださるんだと、それをおかげに感じた時です、もうそこには感動だけしかなかった。
 ね、神様がこのようにして、私を鍛えてくださるということになったら、ね、ただもう有難いものだけしか、なかった。
 そしてそこに立ち上がった。私は、そういう例は、もう私の修行時代には、もう沢山なことですから、皆さんも、度々頂いておられることですから、ね、いうならばです、借金なら借金のために、もう身動きも出来ん、這いも立ちも出来んほどしの、修行させて頂いておる、そのことをです、どうぞ一日も早う、借金払いの出来ますようにというようなです、いわゆる祈っていく、といったそいうもんじゃないです。
そのことを祈るんじゃないです。そのこと事体を、お恵みとして受けておる、ということ、またお恵みとして気付かせて頂くところから、感動が沸いてきておる。奮い立つ心が生まれてきておる。そしてその神様の心に、お答え申し上げなければ、神様がこのような思いで、私を鍛えておってくださるんだから、その鍛えてくださっておる、それに、応えさして頂こうという時に、元気が出ておる。
 それこそ、矢でも鉄砲でも持って来い、というような、元気な心が出ておる。
ね、そういう信心になれば、おかげになるということが言えれる。
 そのおかげというのはです、借金払いが出来たといったことぐらいじゃなかでしょうが。
私の場合、そういう場合に、借金払いが出来たというのじゃなくて、そのことを通して、どのくらいの力を、おかげを、いわゆる現在、いただいとるおかげの、土台というものが、その時分にでけておったということを、思うときに、おかげのその広さ深さに、ただただ驚くばかり、ほんとに感泣しなければおられないことになるのです。
 でないと、くすれ祈れにするから、おかげにならんと断言しておられる、だからそれを今度は、祈れくすれにすれば、おかげになると断言しておられる。
 ね、ですから、この御理解をですよ、楯にとってです、ね、金光様はこう仰っておられるけれども、私はお願いもせんなり、薬を飲んでら、腹が痛かつがようなった、お願いもせずに医者にかかったけど、おかげで退院してきたというて、退院してからお礼にでてくるというような程度の人もある。
 だからそれではないことがわかるでしょう、ここで、おかげと仰るおかげは、ね。だからそういう信心ではですよ、そういう信心で、一生終わって行く人達がどれくらい多いか分からん、開眼がないからです。
 ね、ほんとの心の目を、開かんからです。そのことを願わなければおられないほどしの、例えば難儀を感じる時であってもです、その難儀そのものをです、ね、お恵みとして、受けて立つということ。
そこには医者もいらなければ、薬もいらないでしょう。
 それかというてです、なら今日、私は御神紙やら、御神酒さんのことを申しました。
もうどうかあるから、御神酒さんを頂くということは、、もう、まあ、薬毒こそなから、五十歩百歩だと、それでもおかげを頂く、けれども、やはり私共、弱い。だから御神紙も、御神米も御神酒さんも頂かなければおられんのである。
ねそういう信心も、いうなら、こきまぜての信心、そして根本的なところに、分からせていただかなければならんのは、実を言うたら、御神酒さんも御神紙も、いらんのだけれど、ね、私共は、やはり痛ければ、痛いでさすってもらいたい、痒ければ掻いて貰いたいのですから、・・・?それが薬であってもまた、いいわけです。ね、だから、お願いをして、お薬を頂かなければならん場合もある。お願いをして、神様にお願いをして医者にかからなければならんこともある。
 けれども根本的なところのものをです、ね、おかげにならんとか、おかげになるという、断言して教えておられるその信心の、根本になるものはです、今日私が頂く、泣きながら、立つ、とこう頂いた。泣くという字を頂いた。さんずいへんに立つ、ということ。
 ね、さんずいということはお恵みと頂いた。そのお恵みということはです、お日照りも有難いなら、また、お湿りも有難いのだということ。
ね、自分の都合のよいお日照りだけが、おかげ、お恵みというのじゃない、お湿りが有難いなら、お日照りも有難いのであり、お日照りが有難いなら、また、おしめりも、神様のお恵みであるとして、頂かせてもらうという、しかもその頂かたがです、ね、いわゆる、涙がこぼれるほどしの有難さということになる。
ね、さんずいに立ち上がる、お恵みにお答えするということ。
ね、それを例えば普通で言うなら、信心しよって、どうしてあのような難儀なこと続くであろうかと、人が思うようななかにあっても、その難儀を神の、お恵み、御恩恵、神愛として受けておる、そして涙ながらに、それこそ、戦いながらも、その手にすがりながらもです、ね、神様なればこそ、叩いても下さるんだ、と言って、神様に立ち向っておる。
ね、そういう信心、そこであれもおかげ、これもおかげと分からして頂けるところまでの、信心が、大事である。でないと、例えば今日の四十七節のほんとのところは、分からん。
これを手前のところで頂きますとです、頭が痛ければ、神様にお願いをして、神様、お薬を、神様の前にお供えして、そのお供えを、お下がりとして、お恵みとしていただく、といったようなことに頂いてもよいけれど、これでは、ほんとは徹底、このみ教えを徹底することは出来ない。何故って、ここに、祈れくすれにすればおかげもはやいが、くすれ祈れにするから、おかげにならん、と、おかげにならんと断言しておられるところから見てですたい、今日、私が言う、ほんとにおかげになると、断言できれる信心です、いうなら。
それは、今日私がご神前で頂いた、泣くという字、ね、さんずいに立ちあがって、お恵みに立ち上がって、ね、しかもそれが、衝動、感動とまでなって、それがお参りの姿にもなり、修行の姿になり、ね、御用の姿になり、家業の行の上にそういう内容が、あっての家業の行ということになる時にです、ね、もうこれならば、もう大変な広い、深い意味合いにおいての、おかげになるということになるのです。
ね、くどくど、繰り返し申しましたが、大変な大事なことですね。
だからそれがでけておるとは、おもいません。私どもでも、だからそこをいつも目指しておるわけなんです。
ね、それが場合に、私共の場合、もう生き生きとして、それがいただけておる場合があるです。
ね、例えば今、古屋さんの場合、ご主人が、大変な病気をなさっておられる。福岡から毎日、日参をなさる、なるほど、どうぞ、主人の病気を一日も早う、全快のおかげを頂きますように、という祈りがないわけじゃない、ある。それが段々けれども、薄うなって、ま、ようもようも、主人がこの様な、難儀な病気をしてくれたおかげで、こうやってお日参りがでけておりますと、いわば、泣きながら、いうなら立ち上がっておられるという感じです。
それがもっとスッキリしてくることになるんです、信心とは。
ね、そこにはもう、くすれとか、祈れといったようなものはないですね。
今日、私が頂いた、いわゆる、さんずいに立つ、と、ね、神様の願いに応えて立つ、ということも言えるでしょう。
神願、私共がそこに神の声を聞く、神の願いを聞く、ね、そこの立ち上がるところの信心。そういう信心になる時に、いわゆるおかげになると、断言できれるおかげ、それは目の前に、あのこと、このこと、ひとこと、ふたことが成就するのではなくて、ね、いわゆる神願、神様の大きな願いが、そこから成就してくる、いわば、糸口がそこからでけて来るのです。
今日、四十七節をね、そういう意味で、深い、広い意味合いに於いていただきました。同時にまた、頂けば頂くほどです、なるほど、今、今日私が頂きましたところの、ところを頂かなければ、四十七節の意味はない、ただどうかあるときに、お願いしてから、薬を飲もうと言ったような程度の、もののことでは、大体ほんとはこれにあたらない、ね、それはおかげにならんと、最後にいっとられる、おかげにならんと断言しておられるような、そこから押して頂いてもです、ね、そういうものではないことが分かります。大坪かよこ